●ややウツ
睡眠周期の乱れ、コーヒーの飲みすぎ、休み疲れ等々……今回は要因らしきものをあげつらう事もできる。直せるところは直す、ムリなところはムリ。そんだけ。
●曽野綾子が回っている
氏の著作から得られた心象が、心の片隅に引っかかっている。ちょと、これが現在の弱いウツウツさの原因じゃないかとすら思っている。
端的に言えば、言葉の持つ圧倒的なポテンシャルに撃たれたのだ。強すぎて、大きすぎて、足が動かなくなるくらいに心のリソースを占有されている。こんなにも言葉は強いものなのか、畏怖にも似た感情がある。
ただ、感動ではないのだ。確かにベクトルの絶対値は非常に非常に大きい。矢印の長さだけが”素晴らしさ”なら、自分の経験のなかでもっと素晴らしい創作物であるかもしれん。でも、自分は矢印の方向について考えてしまう。果たして、この方向性は自分の求める方向性に似通っているのか、全く縁遠いものなのか、とな。決めかねている部分があって、上手く感情を思考回路に帰着させられないでいる、のかもなー。
自分は確かに漠然と自分の理想を知覚できているが、これは現在の自分が知覚する理想である。明日の自分、はるか先の自分が同じ理想を目指すとは限らないし、限定するつもりもない。今回の体験が自分の理想に対して、どゆ影響を与えるのか、どゆ意味を持つのか、分らないでいる。素直に従えばいいのか、あるいは逆に反発してみる、それとも妥協点・中間部分を探るのか。
具体的に言えば……小説は確かに人間描写においては優れた表現形式である。映画は集団芸術の要素が強く、コンスタントに、人間を描ききれるもんでもないだろう。名作って呼ばれるものはそーかもしれんが、全体としてみれば娯楽要素(お涙頂戴も含む)に傾いている。それは、そゆ方向のが絶対値を確保しやすく、またお金になるからでしょーや。集団芸術だからコストも馬鹿高いわけで、金銭面は無視できない。その点、小説ってのは”持たざるものの創作”って側面が非常に強い。ここら辺は情報技術が進歩していって”一人制作CG映画”みたいなもんが普及してくと構図が変わるだろーけど、今はムリクリ。
無論、小説もビジネス論理から全く外れて存在できるわけではない。わけじゃないが、極稀に、自身の思考を突き詰めていく活動自体がお金に変わるよな”時代毎の天才”が出てくる。曽野たんもそゆヒトなんでしょ、多分。B'zのドキュメンタリー番組見てたら、松本さまが「売れてるからお金を沢山使って最高の環境で制作できる」みたい発言をしてた。要は上手く時流を掴めた天才のみが、自身の才能をフルに引き出す環境を与えられる。市井のなかで密やかに生み出される名作が存在する可能性は否定しないけど、大概の事例では成功者こそが優れた創作者だ。で小説の場合、取材だのにかかる費用はバカにならなくても、少なくとも映画や音楽に比べればコスト安だと思うんだわ、傾向として。つまり、充分な創作環境を得られる絶対数は多くなる。
小説がヒトの心を掴み続けられるとしたら、強みはそこにあるんかもなー。時代の寵児を多く囲っておけるから、様々なニーズに答えられる。映画や音楽のよに洗脳的な魅力がなくとも、ポテンシャルの”広さ・深さ”で固定客を掴める、かも。
ああ、閑話休題、この”深さ”に圧倒されたのだわ。凄く凄く深いと思った。自分にとっての人間を極めた、極めんとした思考が紡ぎだす言葉の深さ・重さに、圧倒された。こんなにもヒトを描けるのかと、心底……ぶん殴られた心地だ。
それでも、氏を理想の一形態と想定すべきかは、正直決めかねている。正統小説はあまりに人間描写に特化しすぎていやしないか、って疑問符がある。荒っぽい言葉で表せば「登場人物がうだうだやってるだけで面白くない」ってことだ。
価値はあるのだ。自分は絶対の価値など信じてないので、相対的な価値な。当人にとっての、誰かにとっての価値は確実にある。ま、当人の思いは当人次第とも言えるから、要は一定の需要があるってことな。それに”鍛錬”なのだ。自分にとって、経済活動も宗教も創作もスポーツも戦争も、全て”鍛錬”の一言で言い表せるのよ。人間は、そのヒトなりの真善美を目指す。その方向性は異なっても、ベクトルの増加を欲しているって意味では何ら変わりない。確かに小説は”鍛錬”の一形態、一ジャンルであろう。競技の一つだよな。
半無限大の競技のうち何を選び取るか、そんだけが問題なのだ。自身の選んだ競技を深く理解し、試行錯誤を繰り返すことだけが”鍛錬”の近道だ。自分が何を欲しているかを明白化できれば、そんだけ競技ルールの理解が容易くなる。
で、放っておくと、競技ルール同士がぶつかることは間々あるのだ。その対立が自己の内で起これば、各種リソースがそんだけ無駄に使われていく。だから、自分は自分が何を欲しているか、何を理想としているのかを気にかける。一つの人生では同時にこなせない2つの競技を望んだって、どっちかは確実に疎かになるのだ。だから、対立・衝突があるなら選択しなくてはいけない。自分が自分のためになせる唯一絶対のことはリソース配分を気にかけることだけだ。そう思ってる。
創作行為には捨てられない思いがある。執着している。ただ、何を、具体的な何を欲すればいいのか、少し迷いがある。理想が全く見えてないわけじゃないけど、現時点でも細部に留意点が見えている。端的に書けば、「絵や漫画は軽すぎるのではないか。さりとて純小説は重過ぎるのではないか。」という疑問になるか。じゃあラノベで(ry って話ではない。白と黒の中間には灰色と呼ばれる無限のグラデーションが広がっている。どこが最適値なのか、それを問うているのだ。いや、白-黒の直線で済むわけもなく、現実には無限とも思える多次元項がある。
そいつから、感触だけを頼りに、理想のカタチを探っているのだ。濁った水のなかに、何か大きなモノが沈んでいる。そいつを手探りしながら、どんなカタチか推測していってる。まだまだ、分っちゃいない。少なくとも、自分が充分だと思えるほどの強い実感など、ない。
うぅむ、やけに長文化してしまった。こゆのをどゆカタチで表現すべきか、やっぱり決めかねている部分がある。
「綾子たん(*´Д`*)ハァハァ」
とかで済ませれば素早いし、パッと見のインパクトはある(のか?w)。そゆ風に済ませる気分の日もある。そうでない日は、今日のように、たまにだけある。
●変なの投下しといた
あまり面白いものでもないが、イベント事を毎回完璧ヌルーするしたくもない。妙案がなければ力及ばず――だけど、最初から挑戦しないのは怠惰でしょ。また伏線はガシガシしこみたいのだ。下手だろーと、面白くなかろうと、投下したことで自分がウツウツになろうと、知ったことではない。自重と非自重の間を揺れ動くのが自分なのだ。
>あけおめことよろ→「明け、オメコと、よろ」→「明け方に、オメコと宜しくやりました」→つまり姫初めのことを暗示してたんだよぉぉ(AAry。
うむ、思考の回転が悪いって気はしない。問題は思考を絵に表せな(ry。色々と挑戦して自分の描けなさっぷりにイヤk(ry。これも、ウツウツの一因だろーか。
●とりあえず応用訓練も必要かもなー
単に人体をウゴウゴ描いてるだけじゃ身につかない要素ってのはあるんかなー。車を運転しているヒト、布団被って寝ているヒト、抱き枕を強く抱きしめながら「好きだぁぁ」とか叫んでるオレ……色んなオブジェクトとの連携を描けて、初めて一端の絵師と呼ばれるのだろう。そゆのと時間をかけて対峙して、完成度を上げるってのも大事ではある。でも、同時に、即興で描ける能力も要る気がしている。自分は元々絵心がないので、即興さに欠ける、恐ろしく欠けている。少し、訓練していくべきか、どゆ方法がとれるか、意識の底に留めておこう。
●全国の"nunuco"さんにゴメンなさい
検索した限り、2・3名ほど、自分以外のnunucoさんが見つかる。こんな変態野郎が同名を使い出してマジゴメンね。でも、ま、所詮この世は弱肉強食ってミイラ男が言ってることだし、誰しもが使用を自粛するくらいの腐臭を出したいものである。
ああ、でもヌヌコで検索するとかなり被りまくりすてぃー(orz。もう、ヌヌコロが本名にすっかなぁ。
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